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初代ベアクロフツ準男爵サー・チャールズ・カーマイケル・モンロー(Sir Charles Carmichael Monro, 1st Baronet of Bearcrofts, GCB, GCSI, GCMG〔「GCB」はバス勲章ナイト・グランド・クロス、「GCSI」はインドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー、「GCMG」は聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスの受章者であることを示す。〕、1860年6月15日 - 1929年12月7日)は、第一次世界大戦当時のイギリス陸軍の将軍、また、後のジブラルタル総督(1923年 - 1929年)。 == 経歴 == シャーボーン・スクール (Sherborne School) からサンドハースト (Sandhurst) の王立陸軍大学 (Royal Military College) に進んだモンローは、1879年に第2歩兵連隊(2nd Regiment of Foot:1881年クィーンズ・ロイヤル連隊(Queen's Royal Regiment (West Surrey) )へ改名・現在のプリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊(Princess of Wales's Royal Regiment )の前身のひとつ〔 p 69〕〔PWRR連隊史 〕)の士官に任官した〔Sir Charles Monro at Oxford Dictionary of National Biography 〕。第二次ボーア戦争 (Second Boer War) に従軍し、1900年のパールデベルグの戦い (Battle of Paardeberg) に参戦した〔。 1907年、ダブリンの第13歩兵旅団 (13th Infantry Brigade) の司令官に任じられ、1912年には第2ロンドン師団(2nd London Division:開戦後第47師団(47th (1/2nd London) Division)へ改名〔The 47th (London) Division, 1914-1919 (1922) 〕 )の司令官 (General Officer Commanding) となった〔。 第一次世界大戦が勃発すると、モンローは第2師団 (2nd Division) の司令官としてフランスへ派遣され、第一次イーペルの戦い (First Battle of Ypres) で重要な役割を果たした〔。1914年12月には、第1軍団 (I Corps) 司令官となり、1915年7月には第3軍 (Third Army) 司令官となった〔。ガリポリの戦いの後、イアン・ハミルトン将軍が地中海遠征軍 (Mediterranean Expeditionary Force) 司令長官を更迭されると、代わってチャールズ・モンローが1915年10月に後任に充てられた〔。モンローはガリポリ半島(ゲリボル半島)からの撤退を命じた〔。 1916年、モンローはフランスにいた第1軍 (British First Army) 司令官を短期間だけ務めた後、同年の遅い時期にインド最高指令官 (Commander-in-Chief, India) となった〔。インド最高指令官として、モンローはメソポタミアの戦い (Mesopotamian campaign) の指揮を執ることとなった。1916年8月1日、ウィリアム・ロバートソンはモンローに、メソポタミアでは「見栄えよく展開するように (keep up a good show)」とした上で、それ以上は自重し、バグダッドを陥落させようなどとはするなと言ったとされる。ところが、これは戦争委員会 (War Committee) に加わっていたジョージ・カーゾンとオースティン・チェンバレンによってひっくり返された。モンローはインドへの赴任の途上で、スタンリー・モード (Stanley Maude) が率いていた軍の状態を査察し、モンローが送った肯定的な報告を踏まえ、1916年9月18日に戦争委員会はモードに対して攻勢に出ることを承認した〔Woodward, 1998, pp118-9〕。 1923年、モンローは、ジブラルタル総督に任じられた〔。 モンローは1929年に死去し、ロンドンのブロンプトン墓地 (Brompton Cemetery) に埋葬された〔Brompton Cemetery ''List of notable occupants'' 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズ・モンロー (初代準男爵)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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